エッセイ: 百聞は一見にしかず?

この前、私は旧友と午後のお茶を楽しもうと、都心のホテルで落ち合った。彼女は私達のいつもの待合場所に、買い物袋を提げてやって来た。好物のフランス製チーズを販売している近くのデパートに寄って来たのだそうだ。彼女はそれらのチーズが無性に欲しくなるため、値段はジュネーブより東京の方がはるかに高かったが、時々そのお店に足を運んでいるようだ。私たち二人はかつてジュネーブで仕事をしていたのだが、そこではヨーロッパのあらゆる種類のチーズが手ごろな値段で買えた。第二次世界大戦終戦の頃まで、殆どの日本人はチーズを見たことも食べたこともなかったし、チーズが一般に食べられるようになったのはわずか30年ぐらい前からだったと思った私は、彼女が幼いころからずっとチーズを好んで食べていたのかを聞いた。すると彼女は、スイス滞在中、ヨーロッパ産チーズが好きになったのだと答えた。

私も今ではチーズが好きだ。特にクリーミーなものが大好きだ。でも終戦後の日本で、私はチーズに対して否定的なイメージを持ちながら育った。私が最初に「チーズ」という単語を知ったのは、小学校五年の時に使った国語の教科書に出てきた時だ。文脈から推測すると、それは何か食べるものだということは分かったが、一体どのような物かは分からなかった。すかさず手を挙げ、それについて先生に質問した。私は今でも鮮明に覚えているのだが、彼はそれが “石鹸のようなもの”、と答えたのだ。でも彼の回答は納得いくものではなかった。一体誰がそのような物を口に入れたがるのだろう、と不思議でしょうがなかった。ネズミが石鹸をかじった、という話は聞いていたが、まさか人間がそのようなことをするはずがない、と確信出来た。私の質問に答える前、先生はチーズの絵か写真を見たことがあったかもしれないが、多分その臭いを嗅いだこともなければ、食べたこともなかったのだろう。

その後学生として滞在したアメリカでは、サンドイッチ、バーガー、スパゲティ、ピザ、ラザニャ等を通してチーズを食べるようになった。「チーズ」に対しての私の先入観にもかかわらず、それらの料理は美味しく食べられた。アメリカで味わった種類のチーズは、それほど臭くなく、何ら問題がなかった。 しかし、大学で知り合ったヨーロッパ人たちが異口同音に言っていたことは、アメリカのチーズは「本物のチーズ」ではない、とのこと。

その意味で、私が生まれて初めて「本物」に出会ったのは、1970年代半ばに初めてヨーロッパに滞在した時だ。その頃、当時の西ドイツのハイデルベルク大学に数ヶ月間語学コースに通っていたのだが、ある日その大学が企画した、フランスのアルザス地方にあるストラスブールへの日帰り旅行に参加した。数多くの歴史的建造物を訪ねる合間、私たちはその魅力的な街を少々ぶらつく自由時間も楽しんだ。一緒にいたクラスメートが、是非チーズ店に寄りたいと言ったので、私も彼女について行った。店内には他のお客さんがいたため、店員に相手にしてもらうまで少々待たねばならなかった。その間私は店内を見渡し、陳列棚に置かれているいろいろな色、形、サイズのチーズを目にした。棚に置かれたいくつかのチーズは、車のタイア程もある大きさだった。余りにもいろいろな種類のチーズを目にし、驚き、強い印象を受けた。だが店内の悪臭は我慢できないほどだったので、私は彼女に外で待つから、と告げて店外に出た。

初めてのヨーロッパ滞在中は、”本物のチーズ”を好きになる絶好の機会だったかもしれない。しかし店頭で強烈な臭いを嗅いだ後、どうもそれらを試食しようとする気にはなれなかった。そのため、ハイデルベルク滞在中、臭いの強いチーズを避けていた。私のチーズに対する態度が変わり始めたのは、1980年代初頭、再びヨーロッパに、今度はジュネーブに、渡った後だった。フランス料理の夕食では、コースの最後である甘いデザートの前に、必ず大きなプレートにのったいろいろなチーズが出された。初めは特定のチーズはどうしても敬遠したが、他の人々がそれらを美味しそうに食べているのを見て、私も少しずつ食べてみる気になった。そうすることによって、私は徐々にヨーロッパのチーズが好きになり、今ではいくつかの種類のチーズは大好物と言えるようになった。

今や日本料理は世界中で大変な人気である。しかし、私が最初のヨーロッパ滞在中にチーズを避けたように、日本に何年も居住している多くの外国人が納豆を食べられずにいると聞く。発酵食品である納豆は、日本の朝食には熱々のご飯と一緒によく食べられている。安くてどの食品店でも簡単に買えるし、優れた栄養価値があることで知られている。しかしそれを拒否する人たちは、そのねばねばした点や悪臭が我慢ならないと言う。私の彼らへのアドバイスは、よく言われる 「百聞は一見にしかず」という諺は、食物には適用されないし、嗅覚だけに頼るのも適切ではないということだ。私が経験したように、食物の栄養価値を認識し、それを味見してみようと勇気が十分あるならば、ねばねばや臭いは克服出来るのである。

カテゴリー: ユーモア, 異文化, 哲学, 日本 タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , , パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中