経歴

友田シズエは1949年の3月に日本で生まれ、幼い彼女が家を出ることに対する両親の猛反対を乗り越え、16歳で渡米。

彼女が義務教育を受け始めたころ、戦争で完全に廃墟と化していた日本は、民主主義や男女平等という新しい理念の下、復興しつつあった。だが彼女の周りの殆どの大人たちは、男子や女子に対する従来のステレオタイプ的期待を持ち続けた。このことは、男女差別がまだまだ日本社会の実態であることを彼女に認識させた。この状況は、彼女にとって大変息苦しいものだった。このような背景のもとに、彼女は独立精神を培い、なるべく早く家や日本から脱出し、のびのび生きられそうなアメリカに渡りたいと強い願望を抱くようになった。結局その夢が実現したのは16歳になって間もない時だった。

突然英語で勉強しなければならなくなったことや、学校に通いながら経済的にやりくりしていくのは大変困難だった。でもそれは最初から十分承知していたことであったし、そのような困難に立ち向かう心の準備も出来ていた。彼女は自分の独立と自由を満喫した。その当時のアメリカ社会は、ジェンダー、人種、民族、そして宗教に関する従来の価値観が激変しつつあった。又、激しさを増すベトナム戦争が、アメリカ社会を政治信条に沿って大きく分裂しつつあった。彼女は世界の最強国アメリカの苦悩を目の当たりに見た。

それにもかかわらず、彼女はアメリカ滞在を十分満喫した。結局10年ほど在住し、その間ミネアポリスで高校を卒業、その後ウィスコンシン大学リバーフォールズ校で学士号(B.S.-社会学と政治学)を取り、そして南コネチカット州立大学で修士号(M.S.-社会学)、アリゾナ大学でもう一つの修士号(M.A.- 社会言語学)を得た。

しかし思春期に母国を離れてしまった彼女は、20代に入るとアイデンテイテイ危機に陥り悩んだ。自分は紛れもなく日本人だが、母国に関しての知識は乏しいと自覚し、とても胸を張って日本人だと主張はできないと思えた。これは彼女を大変不安にさせた。この精神的危機を乗り越えるには、いったん帰国し、自分のルーツに戻り、自分を再教育するしかないと確信した。

彼女は日本に戻り、東京で教師の仕事を見つけた。教職に就いたその五年間に、より明確で自分がより納得できるアイデンテイテイを確立することができた。この頃、彼女は労働問題に関心を持ち始め、夜間の一般公開講座に時々足を運ぶようになった。教職に就いた5年目は、労働経済学や国際労働法の勉強に十分時間を割く為、仕事量を大幅に減らし、国際基督教大学の大学院研究生として、一年間勉強をした。その直後、スイスのジュネーブに本部を置く国連の専門機関で、「職場での社会正義」を促進する国際労働機関(ILO)から雇用のオファーを受けたのである。

そのような経緯で彼女は再び日本を離れるが、今度は国際公務員としてILOで25年の長いキャリアを積むことになった。その間、世界各地を出張で訪れた。長年ジュネーブ本部勤務だったが、インドネシアのジャカルタとスリランカのコロンボに転勤し、それぞれの場所で3年ずつ勤務した。彼女は国際公務員としての仕事を十分満喫し、又多くを学べたことで、自分の人生をより豊かなものに出来たと満足している。

国際機関を引退後、しばらくはジュネーブ郊外のフランス領にあるフェルネーボルテールという小さな町に愛猫達と住み続けた。アパートからの雄大なフランスアルプス (特にヨーロッパ最高峰のモンブランの眺めは気に入っていたので、いまだにこのページのヘッダーとして使用している)の景色を楽しみながら、ジュネーブ作家グループ(Geneva Writers’ Group)の一員として、趣味の創作活動をエンジョイしてきた。長年一緒に暮らした愛猫達が旅立った後、彼女は30年ぶりに故国に戻った。現在は東京のアパートからの素晴らしい富士山の眺めをエンジョイしている。アパートから見える富士山