ここ数カ月間の日本の記録的な猛暑は、1981年以来初めて母国の夏を経験する私にとって、とても耐えがたいものだった。私にとっての夏日は5月末、じめじめした空気を感じた頃に既に始まり、6月にはもう北極へでも逃げ出したいような気分だった。
暑い日の外出時は、顔を直射日光から守ってくれるほど大きなつばの付いた、白い帽子を必ずかぶった。しかし、その様な帽子でさえも、うだるような日には、全く役に立たなかった。灼熱の太陽の下、高湿度では、ほんの数分歩いただけで、私の髪、顔、首、そして体全体がびしょびしょになった。
テレビの健康関連番組は、視聴者が屋外で如何に熱中症を防げるかについてのアドヴァイスを時々与えていた。提案の一つとして、太陽の下では日傘を使用することだった。日傘の下は、直接日光にさらされるよりも、温度が数度低いとのことだった。早速私は生まれて初めて日傘を購入し、外出時は何時もそれを持ち歩いた。帽子をかぶるより、日傘を使用する利点に直ぐ気付いた。髪や顔は汗でびしょびしょにならずに、日傘の下では結構ドライのまま保たれていた。唯一の欠点は、帽子を着用する時両手が自由だったが、日傘を使用する時は、もう一方の手しか自由でない。しかしながら、日傘の快適さは些細な不便さを大きく上回る。6月上旬以来、日傘を重宝してきた私は、それを購入したことが、この夏私がしたことの中で一番賢いことだったと断言できる。
女性と同様、男性も高温多湿に悩まされているはずだが、私はある日、男性が日傘をさして歩いているのを見かけないことに気付いた。確かに、屋外で働く人々が日傘をさしていては仕事にならないだろうが、営業や販売担当者は屋内で勤務していても、顧客に会うためにしょっちゅう外出しなければならないはずだ。まぶしい太陽の下、灼熱の歩道をあちこち忙しく歩き回る時でも、彼らは日傘をさして歩いているようには見受けられない。
その頃、ある哲学者とファッションデザイナーが、「男性と日傘」というテーマで対談している新聞記事に出くわした。哲学者は、この猛暑の中、とうとう男性用の日傘を購入した、とデザイナーに報告した。これまで帽子からは得られなかった、快適さや肩辺りまでの涼しさを、日傘は提供してくれるとのことで、彼はそれを大変重宝しているとのこと。それにもかかわらず、彼は時々日傘をさして外出することに違和感を抱いたり、恥ずかしい気持ちになることを認め、それが「男らしさ」という社会的概念と関係があるのだと認識したそうだ。
日傘使用を躊躇する自分を客観的に見ると、彼自身も男性がどうあるべきかという、ありふれたマッチョ的な概念を抱いていたことに気付いたそうだ。彼が考えるには、社会は男性に強くあることを期待し、炎天下で汗水垂らしながらも肉体労働に耐えられるのが、「強さ」や「男性らしさ」の資質であると思われているとのこと。そのように耐えられる男性は、更に男らしさの象徴である「闘士」とも見なされる。その反面、日傘をさして外出するような男性は、虚弱なやつと見なされてしまうとのこと。彼は自分も弱虫とは見られたくない願望を持っているので、日傘をさして外出するのをつい躊躇してしまうのだそうだ。
どの社会であれ、殆どの男性も女性も彼らの住む社会の規範に従い、周りに受け入れられるような服装に努めるし、出来るだけ自分をより「男らしく」または「女らしく」見せるよう試みる。しかしながら、男性達が自ら作った、男にとって何が「格好良く」て「認められるべき」との基準に従って行動しているのを見ると、控えめに言ってもそれが時には滑稽に思えるし、彼ら自身、それが自分達の健康に有害であることを知るべきだ。どんな頑丈な男性でも、猛暑には熱中症で倒れる可能性があるが、そのような時、日傘は彼を守ってくれるかもしれない。なぜ彼らは遠慮せずまた恥ずかしがらずに、公然と日傘を使用しないのか?
女性と同様、男性にも日々の暮らしを快適に過ごす権利がある。だが、彼らはしばしば、彼ら自身が自分たちのために制定した規範によって、自分たちの行動を制約しているように見える。彼らは自分達に課した呪縛から自らを解放すべきだ。彼ら自身の為にも、日本の極暑には性別に関係なく、日傘を使用することが賢明で実用的であるとの認識に早く到達し、堂々と日傘をさして歩く勇気を得ることを私は願う。