二十年ほど前、インドネシアのILOジャカルタ事務所に勤務していた頃、ジャワ島東部にあるインドネシア第二の都市スラバヤでは、国家の職業訓練システム確立の為の大規模なプロジェクトが、我々の事務所の管理下で実施されていた。それまでILOが手掛けたプロジェクトとしては最大級の予算と人員を動員したもので、外国人専門家及びインドネシア人職員を合わせて総勢80人以上のスタッフがそのプロジェクトに携わっていた。
そのプロジェクトの専門家集団と、その責任者がスラバヤで勤務していたが、そのプロジェクトの為の専門家の採用、それに付随するインドネシア政府からの採用許可の取得、彼らの滞在及び労働許可証の取得、契約の更新、それに関する諸々の手続き、プロジェクト関係者スタッフ全員の給料の支払い、提案された諸々の職業訓練プログラムの予算の認可やその支払い等は、すべて私が勤務するジャカルタ事務所が責任を負って行っていた。
その頃インドネシア内の電話通信システムはまだまだ遅れていた。ジャカルタ市内でも回線の少なさからなかなか繋がらない有様だったので、まして、同じジャワ島でも西部にあるジャカルタと東部にあるスラバヤとの電話通信にはかなりの忍耐力を必要とした。何度もダイヤルしてやっと繋がっても、しばしば電話が途中で切断されたりするのだった。送られて来たファックスも文字は半分ぐらいしか読めなかった。まるでスパイ映画の中での秘密文書の暗号解読のような作業が必要だった。
そのような状況の下、プロジェクトの責任者が、ジャカルタ事務所長とそのプロジェクトのジャカルタ事務所での担当者だった私と協議するため、度々飛行機でスラバヤから出張してきた。そんなある日、上司に命じられ、今度は私がスラバヤに出向くことになった。そのプロジェクトには国連開発計画(UNDP)も少々出資していたので、UNDPジャカルタ事務所から二人の職員が同行することになった。そのうちの一人はインドネシア人スタッフでスラバヤに精通しており、よいホテルも知っているとのことだったので、私の部屋の予約をも頼んだ。
私達3人は夕方スラバヤに到着し、飛行場からホテルに直行した。それは結構安い宿だった。チェックイン後、それぞれのシングルルームに案内された。私達国連職員が出張する時は、行き先の物価等に合わせて決められた日当が支払われ、それで宿泊費や食費を賄う。実際その日当でもっと快適でモダンなホテルに泊まれたのだが、UNDPの彼が予約してくれたこともあり、与えられた部屋も綺麗に掃除されているようだったので不満はなかった。
私の部屋には二つのシングルベッドがあり、余裕のある広さだった。バスルームの床はタイル張りで典型的なインドネシア風だった。バスタブが無く、小さいが深い水溜に水が張ってあり、そこには柄杓が置いてあった。シャワーを浴びたい時、その柄杓を使って水を掛けながら身体を洗うのである。その時バスルームの床が水浸しになり、その水はバスルーム中央にある排水溝に流れ落ちるようになっていた。排水溝からの悪臭を遮断するため、軽い金属製の蓋が普通はその排水溝にかぶせてある。
ところが私がバスルームに入ると、その蓋が開いたままになっており、排水溝のすぐ横に置いてあった。ホテルの部屋係が掃除をした後、その蓋をかぶせるのを忘れたのだろうと思い、私は蓋をし、他の二人と食事をするため外出した。夕食が終わると、明日の仕事に備えて、さっさとホテルに引き上げ、自分の部屋に戻った。
驚いたことに、バスルームの排水溝の蓋が又開いていた。たった一時間ほど外出している間に、部屋係がまたやって来て掃除をしたのだろうか?それにしても今度も又排水溝の蓋をかぶせ忘れていた。しかしこのホテルの部屋係は一体一日に何度掃除をしに来るのだろう、と不思議に思った。普通、どんな高級ホテルでも、部屋係は一日に一回しか掃除をしに来ない。ただ超高級ホテルで働いている知人が言っていた。確かそのホテルでは各部屋付きの専属部屋係がいて、常に部屋を完璧な状態に保つため、一日に何回でも掃除をするのだと。しかしここは安ホテルだ。どうも納得がいかなかったが、疲れていたのでひとまず床に就いた。
ぐっすり眠った翌朝、更に驚いたことには、バスルームに行くと又排水溝の蓋が開いているではないか。寝る前には確かにかぶせておいたのに。もしかして私が眠っている間、部屋係がそっと入り掃除をしたのだろうか?もしそうだとしたら、何だか薄気味悪い感じだ。まさかそんなことはあるまい。では一体何者が夜中にバスルームに現れ、蓋を開けたのだろう?そして開けたまま出て行ったのだろう?
訳がわからなかったが、私はその蓋を排水溝にかぶせ、洗面台の鏡に向かって歯を磨き始めた。その時、急にどこかでカランカランと金属性の物体が何かにぶつかるような音を聞いた。耳を澄ますと、その音は直ぐ足元から聞こえた。よく見ると排水溝の蓋が浮き沈みし、床のタイルにあたることによって生ずる音だった。そして突然その蓋の真下にいる何者かが頭でそれを押し上げ、パカンと開けて排水溝から飛び出した。それは大変大きなドブネズミだった。彼も私がバスルームにいたのでさぞかしびっくりしたのだろう。慌てて寝室の方に逃げたので、私は必死で追い回した。すると今度はバスルームに逃げ込み、排水溝から退散していった。部屋のドアが閉まっていたので、彼にとって唯一の逃げ道は排水溝だけだったのだ。
これで幻の部屋係の正体を突き止めることが出来、ほっとした。しかし私が眠っている間、排水溝から這い上がり、私の部屋でうろちょろしていたのかと思うとぞっとした。スラバヤには更に2泊したが、その後は重い印刷物を入れたスーツケースを排水溝の蓋の上に置き、迷惑な訪問者の訪問を阻止した。