2019年12月7日付の東京新聞の朝刊で、「70人の兵士につき1人の慰安婦:外務省の古い文書は、彼女たちの供給に関し、軍の関与を示唆した」という見出しの記事を見かけた。「慰安婦」問題に関する情報を収集しようとしていた政府の内閣官房が、古い外務省のファイルの中に、新たに23の文書を発見したそうだ。第二次世界大戦中、中国の各地に開設された日本国領事館が発行した未公開の文書は、「70人の兵士につき、1人の慰安婦」を要求していた。新たに発見された資料は、「慰安婦」または戦時性奴隷を中国内のさまざまな場所に設置された“慰安所”への供給・移送に、外務省と軍の関与を明確に示していた。しかし、記事によると、それらの文書は2017年と2018年に見つかったとのこと。日本の主要な英字日刊紙であるジャパンタイムズも12月6日版で同じことを報告していた。この記事の内容は、私が以前に読んだ歴史書にも似たようなことが書かれてあったので、特にショッキングだとは感じなかった。ただ「新たに見つかった文書」は実は数年前に明らかになったのに、なぜ今まで報道されなかったのだろう、という疑問である。
日本帝国軍下に於ける「慰安婦」問題は、日本とアジアの近隣諸国、特に韓国との真の外交関係構築を妨げている最も論争的で心が痛む問題の1つである。 1910年以降の日本の朝鮮半島占領と第二次世界大戦に至る中国への侵攻および戦時中、日本軍支配下にあった地域から、多くの女性が連行され、日本軍の性奴隷、いわゆる「慰安婦」として働くことを余儀なくされたと言われている。 「慰安婦」にされた女性の数は明らかではないが、その数は20万人程とも推定されている(https://www.bbc.com/japanese/35192235)。
女性たちは必ずしも銃口を突き付けられて誘拐されたのではないにしろ、多くは騙され、最終的には彼女たちにとって、故郷から遠く離れた異国の地で「慰安婦」になることを余儀なくされた(東京都新宿区にあるWAM女性の戦争と平和の博物館には、朝鮮半島出身の女性183人の元「慰安婦」の証言が収集されている)。
試練を生き抜いた韓国出身の女性たちは、第二次世界大戦以来トラウマに苦しんだに違いないが、1980年代後半までは主に国内の政治情勢のため、口をつぐむことを余儀なくされた。また彼女たちは、自分たちの過去を恥ずかしく思い、過去を明かすことが家族にどのような影響を与えるかが分からず、その事に触れるのを躊躇していたかもしれない。しかし1991年、記者会見でキム・ハクスンさんが韓国で初めて「慰安婦」だったと名乗り出、その後同じ年に2人の女性と共に東京地方裁判所で日本政府を相手に訴訟を起こし、これまでの苦しみに対し、人間としての尊厳回復、謝罪と補償を求めた。どうやら、キム・ハクスンさんは、本名を使った韓国からの唯一の申立人だったようだ(http://awf.or.jp/e2/survey.html)。 1992年には、韓国、フィリピン、DPRK(北朝鮮)、中国、台湾、オランダ、インドネシアからの女性が訴訟を起こした(西野留美子他:「慰安婦」バッシングを越えて、「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター、東京、2013年)。 彼女らの年齢を考えると、手遅れになる前に、彼女らは筆舌に尽くしがたい経験を世界と共有する最後のチャンスかもしれないと当然思ったかもしれない。
1922年、現在の韓国で生まれ、「慰安婦」であったと過去を明かした唯一の在日コリアン、宋神道さんは、1993年、東京地裁で日本政府を提訴した(となりの宋さん: 「慰安婦」被害を訴え、生き抜いた宋神道さんを記憶する、「となりの宋さん」写真展実行委員会、東京、2019)。彼女の法廷での証言によると、彼女がわずか16歳だった1938年、もっと稼げる仕事があるよ、と騙され中国に連れて行かれ、言葉も分からない場所で慰安婦になることを余儀なくされたそうだ。その後は旧日本軍が設置した揚子江沿いのさまざまな「慰安所」に連れまわされ、常に性的および身体的暴力にさらされ続けたとのこと。
悲しいことに、これらの原告は2003年頃に敗訴、または最高裁への上告が棄却された。しかしながら、多くの裁判官は彼女たちの反対尋問での証言を聞いた後、彼女たちの経験に基づいた証言は信頼でき、真実であると認定した。 裁判で彼女たちが敗訴した主な理由は、原告たちが旧日本軍兵士相手の「慰安婦」であっても、戦時中の慰安所はそれを商売にしていた民間業者が運営しており、軍部は女性たちの募集や処遇に関して一切責任を負っていなかった、との結論だった。裁判官は、女性たちが「慰安婦」として働くことを軍部に強要されたことを証明する文書は存在しない、と主張したのだ(西野留美子他)。 しかし、旧日本軍が連合軍に降伏する直前に出来るだけ多くの文書を焼却したことはよく知られた事実である。軍部トップたちは、後に戦犯にならぬよう、証拠を残さないようにしたのだ。
日本政府を訴える原告たちの戦いを支持し、日本の多くの研究者やボランティアが、関連文書を発見しようと国内外の公文書・私文書の両方を隈なく調べ、彼女たちを支援した。 当時の政府は、1991年以降、この問題が日本にとって取扱いに慎重を要する外交問題に発展したため、これに関する調査を実施した。
調査の結果、1993年8月4日、「慰安婦」問題に関する河野陽平内閣官房長官の談話が発表された(http://www.mofa.go.jp/policy /women/fund/state9308.html)。 談話の内容は概ね次のようであった。「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当ったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」
私が困惑しているのは、1993年に河野談話が発表されたにもかかわらず、2003年頃には元「慰安婦」による訴訟がすべて敗訴又は棄却されたことである。更に2017年と2018年に発見されたことになっている「新しい」文書に関する懸念である。なぜそれらが最近になって報道されたのだろうか? それらの内容は、河野談話が準備された時点で明らかになっていた文書の内容と比べると、大差ないような気がする。もしかしたら、河野氏が閲覧できた文書には、「軍隊が70人の兵士につき1人の慰安婦を要求する」というような、細かい数字が含まれていなかったのかもしれないが、、、。
河野談話が1993年に発表されたにもかかわらず、今日の与党・又は与党に近い多くの政治家たちが、未だに「慰安婦」問題で、日本の責任に向き合えないでいることに、私は驚き、悲しみを覚える。2019年には、この状況を表す大きなイベントが二つあった。一つは、ドキュメンタリー映画「主戦場: ようこそ、「慰安婦問題」論争の渦中へ」の公開後の大きな論争である。この映画は日系アメリカ人であるミキ・デザキ氏の映画プロデューサーとしての処女作品だった。彼は東京で大学院生としての卒業プロジェクトの一環として、この問題に関して著名で影響力のある人物をインタビューすることで作品を制作した。 彼は論争の両側でそれぞれの主張を対照比較する構図で並列し、関連する歴史ニュースの映像も使いながら彼らの主張をスクリーン上で展開させた。観客は、画面に展開されるさまざまな意見を比較することにより、独自の結論に達することが出来るようになっている。
著名で保守的・国粋主義的な論客の意見のいくつかはぞっとするようなもので、1993年の河野談話から明らかに逸脱し、矛盾に満ちたものだ。例えば、彼らは次のような主張をした: 「女性たちは元々売春婦だった」、「彼女たちは民間業者の募集に応募し、金稼ぎのために自ら軍隊と一緒に移動した」とか、「我々は既に彼女たちに謝罪し、補償したのに、なぜまた過去を蒸し返し、追加の補償を要求するのだ?」等々だ。
一部の日本人は、1965年に締結された日韓基本条約により、両国の外交関係が樹立されただけではなく、同時に日本は戦時中の韓国の人々の苦しみに対し、すでに補償を支払った、という立場を取っている。しかしながら、当時は「慰安婦」問題はどちらの側からも提起されなかったのだ。恐らくそれは、韓国側は被害者としての歴史が余りにも痛ましいものであったろうし、侵略者としての日本人にとって恥ずべき部分であったからだろう (http://ironna.jp/article/2282)。
実際、過去には2度、この問題が適切に処理されていたなら、両方にとって満足な解決策に至った可能性があっただろうと考える。その一つは1995年、当時、自民党(LDP)と新党さきがけが参加する連立政権を率いていた社会党出身の村山富一首相の下で、「アジア女性基金」(AWF)が設立された時である。それまでの日本政府の立場は、「戦時中に関する賠償や賠償請求権の問題は、すでに二国間条約およびその他の関連協定によって対処済」というものだった。 しかしながら、1994年12月の「慰安婦問題に関する最初の報告書」の発表後、日本は女性たちに対する道義的責任を認めることを決定し、AWFの設立に至ったのだ(http://www.asahi.com/articles/ASG8L6FQ7G8LULPT00Y.htmlおよびhttp: //awf.or.jp/e2/foundation.html)。
しかしAWFは、日韓両国の元「慰安婦」支援者から、当初より批判された。日本政府は1995年度に4億8,000万円を医療および福祉プログラムの資金調達プロジェクトへの助成金に充てたが、AWDの主な資金源は個人からの寄付だった。女性たちは、それは日本政府が法的責任を曖昧なままにしたもの、又は責任を回避したことを示すものと理解した。さらに、それに追い打ちをかけるような事が起こった。韓国メディアがAWD基金より支払われる「償い金」を「慰労金」と翻訳してしまった結果、韓国市民が基金の目的を誤解してしまったとのこと。それに加え、両国間の別の論争である小島の領有権問題が、結局慰安婦問題を更に複雑にしてしまったようだ。実際、AWF基金からの支払いを受け入れた女性たちは、AWFに批判的な人々によって可成り非難されたようだ。基金は、韓国政府によって元慰安婦と認定された207人の内、61人に最終的に支払われたと報告されている。また、台湾の13人、フィリピンの211人の女性にも支払われたとのこと。オランダでは、79人の女性が医療費のみを受け入れたが、インドネシアでは、元慰安婦の特定が困難であったため、プロジェクトにより高齢者向け施設が建設されたそうだ(http://www.asahi.com/articles/ op.cit)。
その当時は村山首相の後任、自民党出身の橋本首相の代になっていたが、償い金には彼からの手紙が一緒に手渡された。それには、日本によって引き起こされた戦時中の苦しみに対する彼の誠実な後悔が表明されていた。それにもかかわらず、韓国の元慰安婦のほとんどは、日本政府が法的責任を受け入れなかったため、政府による償いの態度が不十分であると感じたようだ。彼女らはおそらく日本政府の謝罪の言葉とその行為のギャップを感じたのだろう。
真の和解の機会を逃したもう1つの出来事は、2015年12月に慰安婦に関する日韓合意が締結された時だったかもしれない。この合意でも、日本は慰安婦問題に関し、戦時中の軍事当局の関与を認め、「新ためて今回、慰安婦として計り知れない苦痛を経験し、不治の身体的および精神的傷を負った女性たちに対し、日本政府は誠実な謝罪と後悔の念」を表明した。また1995年のAWF基金とは違い、今回は日本政府から合意により設立された「和解と癒しの財団」に10億円を寄付し、その資金で元「慰安婦」女性たちを支援することになった。しかし合意の締結時に、日本はソウルの日本大使館の前に市民団体によって設置された慰安婦を象徴する「平和の像」(または韓国の伝統衣装を着た少女の像)の撤去を条件とし、また両政府は、慰安婦問題の解決を最終的かつ不可逆的と確認した(https://www.mofa.go.jp/a_o/na/kr/page4e_000364.html)。
(平和の少女像)
上記のように、日韓合意を円滑に実施するため、日本が韓国に課した条件の一つは、在ソウル日本大使館の前に設置された「平和の像」の撤去だった。それは彫刻家夫妻であるキム・ソギョンとキム・ウンソン両氏によって製作されたもので、日本政府は韓国政府に対し、合意事項を履行するよう圧力をかけ続けた。しかし韓国は、そもそもそこに像を設置したのは政府ではなく市民グループだと主張した。 したがって、合法的にそこに置かれた場合、政府がそれを強制的に除去することは出来ない、と突っぱねた。韓国は、市民の表現の自由を尊重しているのだ、と。この条件を合意に盛り込み、無害な少女の像を除去するよう要求し続けた日本の態度が余りにも幼稚であると思う。これは、日本がまだ過去を受け入れることができず、被害者に対し心の底から謝罪していないことを示唆しているようで、このことを元「慰安婦」の方々が見抜いているのかもしれない。
しかし、両政府が合意を締結する際に犯した最も重大な誤りは、そもそも主要な利害関係者を、つまり韓国の元慰安婦の女性たちを合意形成のプロセスで排除したことだと思う。したがって、両国の元慰安婦を支援する市民グループは、この合意に最初から批判的だった。現在の民主主義国家では、何のプロジェクトであれ、その遂行において議論の初期段階からすべての利害関係者を含めることが一般常識である。それではなぜ、政府はこのデリケートな問題に関してそのような失態を犯したのだろうか?安倍首相は、日本国家の過去の行為について永遠に謝罪し続けなければならない、という重荷を我々の子供たちや孫たちに負わすわけにはいかない、との意見である。一方、当時の韓国大統領・朴槿恵は、元慰安婦の年齢を考慮し、早急に合意を締結しなければならないと表明した(https://www.bbc.com/japanese/35192235)。それにしても、両国政府は二国間交渉のプロセスで、当事者、または彼女たちの代表者を最初から協議に参加させ、当事者たちにとって満足のいく措置を講じるべきだった。
朴大統領の解任後、ムン・ジェイン氏が2017年に大統領に選出されたが、彼は2015年の日韓合意が慰安婦問題を解決できないことを感じたようだ。結局韓国は2018年に「和解と癒しの財団」の解散を発表したが、合意に関して日本との再交渉は求めないと述べた。これに対し、日本は、韓国の一方的な財団解散の決断をとても容認できないとし、その行為は国際法に違反していると激しく抗議した。だがここで韓国の憲法裁判所が、日韓合意は拘束力がないと宣言したことを付け加えておく。通常、最終的に条約という正式な外交文書になる前に、内閣および議会での審議というプロセスを経たものだ、と裁判所は述べた。つまり憲法裁判所は、日韓合意を慰安婦問題を急いで解決しようとした為の外交協議の過程で生じた政治的合意、として単純に判断したようだ(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53900110X21C19A2EA30000/)。その為、悲しいことに、両国間の問題は引きずられたままである。
この辺でミキ・デザキ監督の「主戦場」の話に戻そう。この映画は大成功を収めたが、しかし恐らくその大成功故に、現在彼はそのドキュメンタリーの中でインタビューを受けた保守的かつ民族主義的論客たちに訴訟を起こされている。原告たちはデザキ氏に騙されたと主張しているのだ。彼らはデザキ氏の研究作品としてのドキュメンタリーにインタビューを受けたが、商業映画に出演することには決して同意していなかったと言う。デザキ氏はこの映画が彼の研究プロジェクトとして制作されたことを認めているが、インタビュー対象者には映画が商業的に配信される可能性があることを知らせた、と主張する。また彼は、彼らの発言を歪曲したり、不当にカットしたりはしなかった、と。彼らが映画で主張した内容は、彼らが既に執筆した記事に書いたものや、彼らが登場したイベント等で語った内容と同じであると主張する。(https://mainichi.jp/ english / articles / 20190625 / p2a / 00m / 0fe / 028000c)。正に彼らは映画の中で主張した見解で知られており、そのため観客にとって何の驚きもなかったであろう。
慰安婦問題について、激しい議論を引き起こし、広くメディアに取り上げられたもう一つのイベントは、名古屋で2019年8月に開催された「愛知トリエンナーレ」という物議を醸した芸術祭だった。この芸術祭には、「表現の不自由展・その後」という企画展示があり、そのセクションでは、これまで主に検閲で引っかかり展示を拒否された作品が展示された。しかしその部門は、主に河村たかし名古屋市長の強い反対、そしてそれに続く多くの電話抗議により3日目に突然閉鎖されたのだ。 市長が攻撃した展示の1つは、韓国の元慰安婦を象徴する平和の像だった。 彼はその像が日本人の感情を踏みにじり、我々を恥ずかしめようとしていると強く感じ、彼が治める自治体で公的資金がつぎ込まれるイベントで展示されることは絶対受け入れられないとのこと(https://www.huffingtonpost.jp/entry/kawamura-takashi_jp_5d9b0174e4b03b475f9c467d)。
芸術祭のこの部門の閉鎖決定は、芸術家当事者や一般市民から厳しく批判された。関係者全員の熱い議論の末、この部門の展示は芸術祭全体が閉鎖される10月の最後の数日だけ再会されたが、「安全・警備」を理由に、事前に予約した者だけが入館を許されたのだ。また、文化庁がこのイベントの為に約束した7800万円(712,800ドル)の助成金を撤回したため、この芸術祭に関する諸問題はまだ解決されていない。撤回の理由は、主催者が補助金を申請する際、展示作品が抗議を掻き立てる可能性があり得るとの必要情報を提供しなかったから、とのこと。主催者はこの補助金撤回の理由が、余りにも曖昧で、こじつけのようだと感じている。名古屋市長もこのイベントへの市の寄付金支払いを拒否した。彼は、慰安婦像の存在は、彼女たちが日本軍に強制的に連行されたという韓国の主張を日本が受け入れている、という不正確な印象を与えかねないと述べた(https://www.japantimes.co.jp/news/20198/national/aichi-triennale-many-faults-)。
日本政府はこれまで慰安婦に関する後悔と謝罪を表明する多くの声明を発表してきたという事実にもかかわらず、私はなぜ一部の人々が無害な少女像(平和の像)に対し、あのように反応するのかが理解できない。彼らは日本が過去の行為に対して既に謝罪しており、永遠に謝罪し続ける必要はないと繰り返す傾向にあるが、結局彼らの反応を見ていると、私たちの歴史をまだ受け入れられないでいるように思える。しかし問題は、日本が公式表明した後悔の念・謝罪と、一部の著名な政治家が政府に批判されることなく公式表明に反する意見を主張し続けるというギャップがあることである。その為、元「慰安婦」の女性たちや支援者が、政府の後悔や謝罪の言葉を心の底からの本当の気持ちだと受け入れられないのも不思議ではない。
日本が歴史とどのように向き合ってきたかに関し、しばしばドイツと比較される。戦後70年余り、主に自民党によって支配されてきた日本のスタンスは、ドイツのそれとは対照的である。ドイツの元大統領・リチャード・フォン・ヴァイツゼッカ―は、1985年5月、ナチスドイツ敗北40周年記念式典で演説し、「過去に目を閉ざす者は、将来に対しても盲目のままでいることになる」という有名な言葉を残していて、多くの日本人からも尊敬されている。(https://www.theguardian.com/world/2015/feb/02/Richard-von-weitsacker)。この立場は、長年ドイツ首相で現在もその地位にあるアンゲラ・メルケルに受け継がれており、彼女が2019年12月、ポーランドのアウシュヴィッツを訪れた際、「ドイツ人はナチスの非人道的大罪を決して忘れてはならない」と表明した(https://www.tokyo-np .co.jp / article / world / list / 201912 / CK2019120702000137.html)。同様に、現ドイツ大統領であるフランク=ヴァルター・シュタインマイヤーが最近イスラエルを訪問した時、「ドイツ人の義務は過去の恐ろしい歴史から目を背けないこと」と、これまでの政府のスタンスを踏襲している(https://www.dw.com/en / german-president-steinmeier-meets-with-holocaust-survivors)。
(ベルリン中心部のホロコースト記念碑)
それに比べて日本では、主に自民党の重鎮政治家やその支持者たちは、まだ第二次大戦に於ける日本の歴史を否定するか、中途半端に受け入れているようだが、出来るだけ早くそれを忘れたがっている。その為2015年の日韓合意締結の時、日本はその合意を持って慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決すると主張した。謝罪を続ける必要はないという安倍首相の立場は、日本が心の底から謝罪しているなら理解できる。しかし、上記のドイツ政治家たちが「ドイツ人は決して過去を忘れてはならない」と度々指摘するように、日本人も過去から目をそらすべきではない。そのため、ドイツが過去を忘れないようにとベルリンのど真ん中にホロコースト記念碑を建てたことは注目に値すると思う。慰安婦問題について我々が真剣に反省し、心の底から謝罪を表明するなら、国会議事堂前、あるいは天皇の名の下で戦い、戦死した兵士が「英霊」として眠る靖国神社の鳥居の前に、平和の像を設置することを提案したい。そうすれば我々は決して過去を忘れないだろうし、最終的に日韓の真の和解につながり、元「慰安婦」の女性たちの心に安らぎをもたらしてくれるだろう。