女性と伝統

最近の女性と伝統に関する日本での論争は、褌のようなベルトを身に着け、腕力か技能で相手を負かす相撲力士が戦う土俵上で起きた、ある人物の生死にかかわる事件に起因する。大相撲は毎年6回、奇数月に執り行われ、その内1月、5月、9月場所は東京で開催され、残りは順番に大阪、名古屋、福岡で行われる。これら6場所以外に、日本相撲協会は国内の相撲ファンが白熱した土俵での戦いを目の前で楽しめるよう、あちこちへの巡業を行う。Sumo ring(from BBC news)

この出来事は、4月4日京都に近い舞鶴市での大相撲巡業中、多々見良三市長が土俵上で挨拶中に起こった。彼が心臓発作で突然倒れたのだ。その直後に起こったことは、広くテレビニュースで放映された。何人かの男性が土俵に駆け上がり、仰向けで土俵に横たわる市長の回りに跪いたが、彼らは次に何をすべきか分からず、完全に無力に見えた。それら混乱する男性を見て、観客の中の2人の女性看護師が急いで土俵に駆け上がった。当初彼女らは躊躇しているようだったが、何も役立たない男性たちを見かねて彼らを押しのけ、素早く人工蘇生(AR)手順を開始した。救急車が呼ばれたとしても、命を救うためには、緊急救命隊(EMS)の到着までARを直ちにそして継続的に施さなければならない。しかし驚いたことに、女性たちが市長の命を救おうと奮闘している最中、「女性は土俵から降りて下さい」と拡声器から場内アナウンスが何度も流されたのだ。

館内の誰もが、大声でアナウンスする男性の声をはっきりと聞いた。 女性たちは少し躊躇したようだが、結局その命令を無視し、EMSの到着までARを続けた。 このような状況で何をすべきかを正確に知り、なおかつそのように行動した女性たちのおかげで、市長の命は救われたのだ。 この出来事の直後、テレビのニュースには映されていなかったが、相撲協会のスタッフが土俵上に沢山の塩をまいたことが報告された(http://bbc.com/news/world-asia-43652428、上の写真も含む)。日本の伝統では、塩は悪霊を追い払う為や、「穢れ」や死を含む「不浄」とされる出来事に関わった後に、自身や空間を清めるために使われる。(例えば1971年、父の火葬後に自宅に戻った私は、その地域の習慣として、塩で両手を清めなければならなかった。)

女性観衆は、土俵にまかれる塩を見て、侮辱されたと感じたに違いない。なぜなら、相撲協会の振る舞いは、女性が上ることでその「聖なる」土俵が汚され、その汚された空間を塩で清めなければならなかった、と言っているかのようだったからだ。テレビニュースで、女性看護師のとっさの判断と適切な行動の途中に流れた場内アナウンスに対し、相撲協会には男女を問わず大勢の視聴者から、あのような緊急時にも時代遅れの伝統に執着することに対し、非難の電話が殺到したと報じられた。その為、協会理事長はその直後、あの状況であの様なアナウンスをしたことは不適切だった、と謝罪せざるを得なかったのだ。

しかし、同協会は、土俵上での「女人禁止」という点に関しては、未だに断固たる立場を取っている。 舞鶴での出来事の後、相撲巡業は宝塚に移った。そこでは、市長の中川智子氏が女性ということで、土俵上ではなく、土俵の外に設けられた台の上からの挨拶を余儀なくされたのだ。どうやら彼女は、土俵上から挨拶が出来るよう、相撲協会の同意を得ようとしたが、協会は頑なにそれを拒んだようだ。市長にとっては、それが差別的で屈辱的であった。だが同協会は、それは「神聖」な伝統を守ることで、差別ではないのだ、と従来の主張を繰り返した(“Japan female mayor battles men-only sumo rule”、The Straits Times, April 24, 2018)。

この論争は別に新しいことではない。1990年には、海部俊樹首相の下で日本では初めての女性官房長官だった森山真由美氏が、大相撲初場所の優勝者に、首相の名代として総理大臣杯を手渡す予定だった。だが相撲協会は「伝統」を盾にそれを拒んだのだ。同様の出来事が2000年に、当時大阪府知事であった太田房江氏にも起こった(http://huffingtonpost.jp/20180404/sumou-women_a_23403382/)。 この問題に関しては、悲しいかな、何十年も何も変わっていないのだ。

普通、私たちの周りの全ての「伝統」が時代の流れと新しい環境に応じて徐々に変化するが、相撲協会が「女人禁止」制を何が何でも守ろうとする土俵は、一体どれほど「神聖」なのだろうか? 広く受け入れられているのは、日本の国家スポーツとみなされている相撲は、神道の儀式に基づいているとの考えだ。神道とは土着の信仰や神話等が集合されたもので、戦時中の「英雄」をも含む八百万の神々を礼賛する。また収穫祭のようにいろいろな場面で神々に対し、崇拝・感謝の儀式が執り行われる(ウィキペディア)。又、神道の信仰では、血を不純物と結びつけていることも広く知られていて、女性は月経と出産時に出血するため、昔から儀式的には不浄の性と考えられてきた。だが、もし男性が本当に女性を汚い性と信じているなら、私は彼らの思考能力を疑いたい。男女問わず、すべての人間がこの世に生を受けるとき、母親の子宮から血まみれになって出てくるのだ。詰まり、血は生命の源として考えられるべきである。Shinto shrine gate

この論争で、私がアメリカで大学生だった半世紀ほど前の記憶がよみがえった。その頃パキスタン人教授が講義する文化人類学講座を受講していたのだが、私の記憶が定かであれば、パキスタン社会の古いしきたりでは、女性が生理中は特別に設けられた場所に隔離され、生理が終わるまでそこに滞在しなければならなかったとのこと。そのような隔離の処置は、やはり血を不浄のものと捉えていたためだったらしい。昔は現在のような便利で機能的な生理用品等が無かっただろうから、生理中の女性が特別な場所に滞在することを義務付けたことに、少々理解も出来るかなーと言う感じだ。

この論争に関してもう一つの記憶は、1980年代後半にインドネシアのジャカルタに3年間勤務していた頃、出張中に訪れたバリ島での経験である。私のオフィスが実施していた職業訓練プロジェクトの現場を訪れた後、ジャカルタに戻る前に少し自由時間があったので、あるヒンズー教寺院を訪れることにした。だが、正面門に着いた時、がっかりした。その門の横には英語とインドネシア語の看板があり、そこには「生理中の女性は寺院敷地に入るな」と書かれてあったからだ。実際その時生理中だった私は少々不安な気持ちになったが、折角そこまでやって来たので、中に入ることにした。絶対に敷地を汚さないという確信があったし、ヒンズー教の神々も現代ではどの訪問者をも拒まないだろう、という強い思いもあったからだ。Hindu temple gate

相撲の女人禁止の伝統の起源を修験道に結びつける歴史家もいる。修験道とは、「7世紀の日本で進化した民俗的・宗教的慣行、仏教以前の山岳礼拝、神道、道教、密教等の信念、哲学、教義並びに儀式等が融合されたもの」である(http: m.wikipedia.org/wiki/Shugendo)。 そのような歴史家の一人が関裕二氏で、彼は協会が自らの「伝統」の由来も理解していなく、それが混乱の元になっている、と主張する(http://blogos.com/article/295570/?p=2)。

関氏によれば、修験者は山々が五穀豊穣をもたらす母神として崇拝してきた。 彼らは、人間の女性が登山すれば、山の女神が嫉妬するとも信じた。そのため過去には、多くの「霊山」で女性の登山が禁止されていた。彼は土俵が象徴的に「山」と見なされ、そのため相撲協会は依然として女人禁止の伝統に固執していると考える。つまり、土俵での女人禁止の背景には、山の女神を礼拝する慣行があると考える。

説明がどうであれ、私は21世紀の今日、日本相撲協会が中川智子・宝塚市長をあのように扱ったことに、どうしても正当性を見いだせないでいる。あれは単なる性差別だったと思う。中川市長は、今後6ヶ月ごとに請願書を提出し、この状況を何とか変えようと目標を立てているとのこと(The Straits Times、op.cit.)。私は彼女の努力を大いに支持したい。なぜなら、 日本の女性問題に関し、古い伝統の起源を理解もしていないのに、それを盾に女性を不当に扱い続ける男性に対し、我々女性が声を上げない限り何も変わらないからだ。

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