去年の4月、このブログで、「日本は女性にとって最悪の先進国?」という題のエッセイを載せた。それには、世界経済フォーラム(WEF) が2012年に出した「世界男女格差指数」(global gender gap index) という報告書の中で、調査された135ヶ国中、日本は101位にランクされたことに言及した。その指数は、性別に基づく格差の大きさと範囲をとらえようとするものである。つまり、個々の国に於ける実際利用可能な資金や機会のレベルよりも、むしろそれらの資金や機会へのアクセスにおける、性別に基づく格差を測定するように設計されている。指数は個々の国の発展レベルには関係なく算出されている。またどれだけの資金等が投入されているより、(1)経済参加と機会、(2)教育レベル、(3)健康と生存、そして(4)政治的エンパワーメント(政治参加と権限)の分野での具体的成果を評価している。
WEFは最近、2013年版の同報告書を出し、最新の世界男女格差指数を発表した。前年通り、アイスランドが1位にランクされ、2位以下はフィンランド、ノルウェー、スウェーデンが昨年通り続いた。しかし今回は、フィリピンが5位にランクされた。アジアで最高のそのランキングは、前年の8位からの向上である。ヨーロッパの7カ国がトップ10にランクされたが、G7やG20に属するいずれの国もトップ10にはランクされなかった。だが日本のランキングが前年度の101位から、今回136カ国中105位に下がったことにはとてもがっかりした。しかし私は、日本が第二次世界大戦で完全に破壊された後、大きな経済的発展を遂げたにもかかわらず、なぜ何十年もの間男女格差を狭めることができていないのだろうかと思った。
健康と生存率に関しては、日本人女性は世界でトップクラスに位置する。 2012年には86.4歳であった彼女たちの平均寿命は、2011年には津波のせいで香港女性の平均寿命にほんの僅かに抜かれたが、1980年代半ば以来最長となっている。学歴の分野においても、日本女性の中等教育終了率は、ノルウェーやスウェーデンの女性たちと変わりない。これらの国々でのその男女平等指数(GPI=gender parity index=女性値と男性値の比率)は1.00であった。またアイスランドでは1.02、そしてフィンランドでは1.01だった(Global Education Digest 2012, UNESCO)。
しかし高等教育に関しては、スカンジナビアの女性達がなぜ世界男女格差指数でトップにランクされているかが分かる。学士号に関してのGPIは日本の0.82に対し、アイスランド、フィンランド、ノルウェー、スウェーデンは、それぞれ2.28、1.83、1.79および2.05であった。欧米主要国の中で、世界男女格差指数14位のドイツのGPIは1.32であり、格差指数18位の英国のGPIは1.38であった。また23位のアメリカのGPIは1.42であり、45位のフランスのそれは1.27だった。この文献にはフィリピンの数値の記載はなかった。
日本女性が世界の男女格差指数で非常に低くランクされる原因は、主に彼女たちの低い経済的、政治的参加率にある。例えば、まだ日本人の半数以上が、男性は外に出て働き、女性は家で家族の世話をするという伝統的な価値観に固執しているとの調査報告がある。その為、アイスランドの管理職の33%が女性で占められているのとは対照的に、日本の管理職に占める女性は僅かの9%だ。政治家に関すれば、日本の衆議院議員の女性の割合は8%だが、アイスランドの一院制国会の女性議員数は40%だ(「男女平等」日本は105位、何で?過去最低、デジタル朝日、2013年10月27日)。初の女性大統領を選んだ韓国の、今回の世界男女格差指数は前回より向上したと予期したが、何らかの理由で、その順位も前回の108位から111位に僅かながら後退した。
一年余り前に帰国するまで、私は仕事の関係で30年ほど海外暮らしだった。その為、日本女性が男女平等を勝ち取るまで、まだまだ長い道のりを歩まなければならないことを忘れがちになる。最近、友人で元同僚が挙げた結婚式に出席した際、私は日本の男女格差の厳しい現実を垣間見た。現在ジュネーブを拠点に仕事する日本人新婦と外国人の新郎は、彼女の母国で伝統的な神式結婚式を挙げようと、東京にやって来た。厳粛な儀式の後、招待客全てが、豪華に盛られた美味しい料理を存分楽しんだ。しかし披露宴そのものは、新郎新婦が日本の伝統的な結婚衣装を身に着けたまま、ラテン音楽のリズムに合わせて踊るという、とても伝統的だとは言えないものだった。
この夕食を楽しんでいる間、著名な招待客数人がお祝いの言葉を述べることになっていた。その中の一人が、既に引退している新婦のかつての上司で、今回この結婚式にマレーシアからはるばる駆けつけたのだ。彼女と新郎が日本語を理解しなかったので、2人のために最初から最後まで和英と英和通訳が提供された。短いスピーチの終わりに、彼女が新郎新婦への祝福の乾杯の音頭を取ろうとしたところ、突然MCがそれを制止した。
その時、一瞬の混乱が生じた。彼女がなぜそうさせてもらえなかったのか、私にはわからなかった。彼女もまた、当惑し、気まずい思いをしているようだった。その為、私はすぐ隣に座っていた友人に、その状況を理解したのかどうかを訪ねた。その日本女性も長年海外で仕事をしてきたせいか、さっぱり理解できないと答えた。同じテーブルに座っていた著名な男性招待客は、私の質問を聞き、「女性は乾杯の音頭を取らないのだ」と答えた。彼らはそれ以上のことには言及しなかったが、私が理解したのは、その様な場では、最後に挨拶をする人が、そしてそれは常に男性が、乾杯の音頭を取るのだとのこと。
この出来事は、マーガレット·サッチャーが英国の初女性首相に選出された後、日本に公式訪問中に経験したことを、随分前に新聞で読んだのを思い出した。当時日本では、世界最長の海底トンネルである青函トンネルが建設されていた。一方、フランスと英国は彼らの2カ国を結ぶ英仏海峡トンネルの建設を検討していた。サッチャーは、日本のトンネル建設に使用されていた最新技術を見るため、トンネル内の工事現場を訪れたかった。だが単に彼女が女性というだけで、現場で働く男性達は、彼女の訪問を断固として拒否したのだ。どうやら、彼らはトンネル工事現場に女性を迎えることは、何か不運をもたらすと信じていたようだ。でも彼らは、過去には実際多くの女性が、大半は炭鉱労働者の妻たちだったが、深い炭鉱で、時には海底下の炭鉱で、汗と炭塵にまみれて奮闘したことを知っていたのだろうか?
結婚披露宴での出来事と、マーガレット·サッチャーの日本での経験を比較するのは妥当でないかもしれない。しかし私が思うには、あまりにも多くの男性が、社会における女性の役割を制限する古い伝統を、それが現代でも妥当かどうかを疑問視することなく、いまだにそのまま受け入れている。彼らは単に「常にそうしてきたから」、と言うだけだ。同時に、あまりにも多くの女性も、伝統に対して反論することなく、又「なぜそうでなければならないのか?」と疑問視することなくそれらを受け入れているようだ。このような状況が変わらない限り、日本における男女格差は将来も余り縮まらないだろうと、私は危惧している。