毎年8月が近づくと、どうしても亡き母のことを思い出さずにはいられない。8月4日が彼女の命日だからである。前回のブログの「安楽死について思う」のエッセイの中で、彼女が癌を患った末、いかに耐えがたき苦痛を経てこの世を去ったかを書いた。癌が発見された直後に入院したが、その時もう既に手遅れだった。余命3カ月と告げられたが、結局6カ月生き伸びた。しかし彼女の最後の3カ月は見るに忍びない苦痛の連続だった。その為彼女を思う時、どうしても苦痛に歪んだ彼女の顔が脳裏に浮かぶ。しかしそのような悲愴な顔を打ち消してしまうような彼女の微笑みも、思い出として私の脳裏にしっかり焼き付いている。
母が胆管癌で急きょ故郷の福井県立病院に入院した時、私は東京で仕事をしていた。母の余命が後僅かだそうだと姉から知らされた時は、とても信じられなかった。たったその半年前の夏、母は私を含めた娘達や孫達と一緒に立山黒部アルペンルートを旅行し、標高2千メートルほどの八方尾根までトレッキングを楽しんだのだ。その時、健康には全く問題がなかったように思われた。ただ宿泊先での夕食時に、最近は脂っこい物に対して余り食欲が湧かないと言っていた。私達娘が母に定期健診を受けるようにと念を押すと、それは毎年やっているとの答えだった。あれほど元気だった母が、たったの6カ月後にその様な状態に陥るとは誰が想像できただろうか。
姉から知らせを受けた後、私は出来るだけ早く故郷の福井に戻り、母を病院に見舞った。胆管が癌に侵され黄疸になり、色白だった彼女の身体中が黄色くなっていた。胆汁を体外に流すため、彼女の胆嚢辺りに管が差し込まれ、胆汁がその管の先に取り付けられたプラスチックの袋に流れ落ちるようになっていた。母はその袋を収めた布製のバッグを肩からかけ、普通に病院内を移動しているようであった。
東京から福井までは新幹線と特急に乗り継ぎ片道3時間半かかった。仕事の都合で毎週末は福井に戻れなかったが、母の余命があと3カ月と言われたからには出来る限り彼女の病室にかけつけた。最初の訪問の時は黄疸が出ていて異様な顔つきだったので、やはり彼女の命は長くないのかな、と私なりに覚悟した。しかし2度目の訪問の頃は黄疸が大分治まったのか、彼女の本来の肌色になっていたので安心した。でも彼女が受けていた化学療法のせいか、その後会う度に彼女の頭髪が薄くなっていったし、吐き気にも苦しんでいて、食欲が全くないと弱々しく訴えていた。その為体は見る見るうちに痩せていった。体重測定が毎週1回あったが、毎回減少している自分の体重を考えると、母はもう秤の上に乗りたくないと言っていた。そのまま母の健康が下り坂を転び落ちるのかと覚悟していた私達だったが、2か月余り経った頃、彼女の顔色が徐々に良くなっているのに気付いた。食欲も少々出て来たようだった。
入院して3カ月がたった頃のある日、私が母の病室を訪れると、彼女はベッドの上に座り、雑誌を読んでいた。身体の調子が良かったのか、病室に入って来る私を見た彼女の微笑みは、これまでに見たことのないような、光り輝く印象深いものだった。まるで若い乙女が初めて恋に落ち、嬉しくてたまらない思いを誰かにそっと告げたいような笑顔だった。きっと何か良いことがあったのだろうと察した私は、早速何が起こったのかを聞いた。すると彼女は、その日に行われた体重測定の結果、体重が先週に比べてほんの僅かばかり増えていたというのだ。それが嬉しくてたまらない様子だった。
入院時に余命3カ月と言われた母だが、その時の彼女の乙女みたいな美しい笑顔を見て、私はもしかして奇跡が起こりつつあるのかしら、と淡い期待を抱いた。しかしその後の母の病状は下り坂で、その3カ月後に私達の元を去った。彼女の最後の数カ月は正に苦痛との戦いだったが、私はその前に彼女が見せてくれた光り輝く笑顔を、何時までも忘れないで心の中にしまってある。