これからは、このブログに新しいエッセイを時々書き足していこうと計画していますが、まだその余裕がありません。その為しばらくは、私が以前書き、一度他に掲載されたものを、ここに再度掲載させて頂きます。
異文化のメイドさん
六年間のジュネーブ勤務を終え、四月にILOのジャカルタ事務所に転勤した。ジャカルタは物が豊富で、アンパンやカレーパンまであり、日本からの輸入品が街にあふれている。仕事はまだ慣れないせいか大変だが、オフイスは本部より活気があり、十分満足できる。
頭痛の種は使用人のことである。異文化で育ったメイドさんを使うのは骨が折れる。経験者からこうした事情を聞いていたので、出来れば小さなアパートに住んでその煩わしさを避けたいと思った。
ところが近代的アパートの家賃は月二千ドルが相場。国連職員には到底無理。ならば小さい家をと思い、探し回ったが、賃貸用の家は大きいものばかり。結局、独身の私も四寝室、三浴室、二居間、メイド室、メイドさん用浴室、ガレージ付きの家に入居する羽目になった。これではメイドさんが必要だ。
知人の紹介で雇ったメイドさんはジャワ島中部からジャカルタに出てきたばかりの、あどけない16歳の少女である。最近は大分気がきくようになったが、最初は一つ一つ指図しなければならなかった。不自由なインドネシア語で説明しているより、自分でしてしまった方がよほど簡単だと思ったものだった。そういうことで雇って暫くはイライラ続き。例えば家の内部と外部は別々のほうきで掃くようにと、色違いの二種類のほうきを渡したが、ある土曜日の朝、彼女が内部用のほうきで外を掃いていたのを見てしまった。ある日本人夫人によると、彼女が気づくまで、彼女の家のメイドさんはトイレ用の柄付きタワシで、浴槽や洗面台まで磨いていたとのこと。その後は付きっきりで細かく指導したそうだ。
私は朝七時出勤で、夕方七時頃まで帰宅しない。その間、我がメイドさんの仕事ぶりは分からない。とうとう解決策として、余り神経質にならないことに決めた。(ILOジャーナル、1988年7月号より)